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Y田監督

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アチキは、高校・大学と水球をやってました。

高校1年のオフ、長年我が高校を指導してきたU先生の県庁転任が決まり、後任として若いT山先生が(東京教育大・体操部出身)水球部顧問先生として転任してきた。

T山先生は「ハート的」には完璧の先生。

ただ1つ難点が・・・「泳げない」

もちろん水球も知らない。

インターハイと国体に生徒を引き連れた全国の先生のなかで、いや歴史上初めての「カナヅチ水球監督」になった。

それじゃ・・ってことで、T山先生と同時に、やはり我がOB、当時専修大学・水球部4年だったバリバリの現役・Y田さんに白羽の矢がたった。
大きな声・大きな目で厳しそーなY田さんは、Uターンし「市役所」に入るべく試験を受けるという。

当時も今も役所に入るのはチョー難関。

とっても恐そうだったので、我々部員一同の願いは・・・・「落ちてくれ」

そんな願いもむなしく、みごと入庁。
毎日5時15分から練習本番の毎日が始まったワケザンス。
(今でも5時を告げる市役所から流れるドボルザークの「家路」は・・・キライです)


その頃のわが高校チームは歴代最弱。
フィールド7人は、3年が2人・2年が3人・入り立ての1年が2人。
つまり1年はほぼ「敵」なので、常に5人で敵9人と試合してたよーなもの。

しかし数年後、T山先生とY田監督は、このチームを国体3位の強豪チームに育てあげる。
アチキの高校最後の試合の後、「今後このチームが強くなったとしたら、この苦しい時期をつないだお前たちのお陰だから・・・」と言っていただいたことは忘れられない。
つまり・・・数年後には「勝つ」つもりだったのだ。

その後もジュニアの育成にも、また水連を通じ水泳・水球のために、もちろん市制のために尽力してきた。(先の地震の時は、数日家に帰らなかったそうだ)

水連の中にあり、いつも
「子供たちが喜ぶなら・・・」
「子供たちのためにも・・・」が口癖だったそーだ。

アチキも進路に関しては両監督にはほーんとお世話になってしまった。
今考えても、なんでこんなに子供達のために真剣に親身になれるのだろうと・・。

奥さんと一緒になる時も、「オレは水球に育ててもらったので、これからは水球のために尽くす」・・・と告げたというのは本日、奥さんから初めて聞いた。

享年57歳。

何したって死にそうにない人だった。

Y田監督が育てた我々や、今現役の子供たち、ジュニアたち、みんな・みんな集まった。

この時代。ガンっていっても、治せるハズだ。
早期発見ならば。
残念でならない。

あそこまで他人や子供たちのために、真剣になれるだろうか。情熱をかたむけることがアチキにできるだろうか。

Y田監督に指導してもらったこと。卒業後、たまにプールに訪ねると・・・
「今日はカネの続く限り飲むんだからな」と言って喜んでくれた。
アチキにとって、すばらしい財産だ。


きっとこれからも、子供たちを天国から見守ってくれるに違いない。


今までありがとうございました。


合掌